歴史と文化のクロスロード

吉野ヶ里歴史公園

弥生時代の集落を再現した高床式の大きな建物が広い敷地のあちらこちらに立っている吉野ヶ里遺跡の写真

 今やその名を全国に知らしめた吉野ヶ里遺跡は、昭和61年からの文化財発掘調査によりその姿をあらわしました。日本一の規模を持つ弥生時代の環壕集落をはじめ、墳丘墓、物見やぐら跡など歴史上重要な発見が行われ、それまで多くのベールに包まれていた弥生時代の人々のくらしが次第に明らかになったのです。
 吉野ヶ里遺跡は、3世紀ごろの中国の歴史書「魏志倭人伝」に書かれている邪馬台国の情景にたいへん似ていることから、邪馬台国九州説があらためて浮上し全国から注目を集めています。

石塔院

5つの石を積み上げて作られている五輪塔が左から小さい順に4つ並んでいる写真

 石塔院は元寇の勅願祈祷所として建てられたといわれています。
 五輪塔は、鎌倉幕府将軍惟安(これやす)親王、久明(ひさあき)親王、守邦(もりくに)親王の供養碑ともいわれています。もう一基は不明で、他にも東妙寺開基唯円(ゆいえん)上人供養塔と伝えられる五輪塔もあります。
 板碑(いたひ)群は、散乱していたものを建て直したものです。記念銘があるもので最も古いのは嘉吉(かきつ)碑(1441年)。その他にも宝徳(ほうとく)碑(1450年)、文亀(ぶんき)碑(1501年)などがあります。現在、宝徳碑は県立博物館に移設されています。

東妙寺

 鎌倉時代弘安元年(1278)元寇に際し後宇多天皇の勅願(ちょくがん)によって、 西大寺の唯円上人(ゆいえんしょうにん)が創建したと伝えられています。 南北朝時代には懐良親王(かねながしんのう)が本陣としました。

右側に大きな木が立っておりその後ろに東明寺が写っている写真

東妙寺の昔話「泣きべそをかいたお釈迦様」

 明治時代 世に排仏論が出されると、東妙寺は寺の収入がなくなり、とうとう本尊のお釈迦様を質屋に取られてしまいました。ところが、夜になるとこのお釈迦様が、質屋の倉の中で「東妙寺に帰りたい」とシクシク泣いてばかり。これを見た質屋の主人はすぐにお釈迦様を東妙寺にお返ししたそうです。お陰で今、お釈迦様はニコニコ顔でいらっしゃいます。

背中に輪のような光背があり、左手には蓮の花のつぼみのような物が先端にある棒状のものを持ち、立っている木造聖観音立像の写真

木造聖観音立像(もくぞうしょうかんのんりゅうぞう)(国重文)

 桧の一木造りの立像。膝下(しっか)には翻波式(ほんばしき)の衣紋(いもん)がみられ、 平安時代前期の貞観様式(じょうがんようしき)の手法をとどめた県内でも 最古の仏像。もとは妙法寺の本尊でした。

木造でできた釈迦如来が、右手を開いて胸の下に挙げ、左手は開いて左足の上に乗せて座禅を組んで座っている木造釈迦如来坐像の写真

木造釈迦如来坐像(もくぞうしゃかにょらいざぞう)(国重文)

 桧の寄木造りの漆箔像で内刳が施され、目には水晶がはめ込まれて玉眼となっています。彫像様式から見て鎌倉時代の作と推定されます。

長い巻物に墨で長文の文字が書かれている紙本墨書梵網経の写真

紙本墨書梵網経(しほんぼくしょぼんもんきょう)(国重文)

 南北朝時代、懐良親王は征西将軍として派遣されました。親王は筑後矢部山中に退隠したと伝えられていますが、その時母親の菩提を弔うために納められたものです。

紙に東明寺周辺の地図が描かれており、紙が古く、色が茶色に変色している東妙寺并妙法寺境内絵図の写真

東妙寺并妙法寺境内絵図(とうみょうじならびみょうほうじけいだいえず)(国重文)

 田手川をはさんで東岸に東妙寺、西岸に妙法寺の伽藍(がらん)が描かれています。鎌倉時代末期の製作になると考えられています。

長崎街道(田手宿・目達原宿)

 長崎街道は江戸時代小倉〜長崎57里(約224キロメートル)を25の宿場で結び、今も当時の面影を残す建物などがみられます。町内には正式な宿はありませんでしたが、中原宿・神埼宿間の「間の宿」として田手宿などがありました。当時田手川は橋がなく、川底に石を置いて渡る陸渡でした。
 目達原宿の祇園神社前には「恵比寿石像」が残り、往時の宿の存在を物語っています。

茶色壁の2階建て田手宿の外観の写真

田手宿

白壁の和風の家で通りに門が設置されている目達原宿の外観の写真

目達原宿

田手神社

通りから見た石垣の上のフェンスの中にあり、建物が2件隣合わせに立っている田手神社の外観の写真

 天智天皇もしくは、斉明天皇の時代に建立されたといわれる田手神社は、鍋島藩時代には佐嘉伊勢町の伊勢神宮とともに伊勢参りの代参社として、多くの人が参拝に訪れていました。

筑前街道(歴史の道百選)

山中で後方には木々が生い茂った開けた場所に案内表示版が設置されており、女性二人が表示版の方を見ている写真

 肥前・筑前街道から脊振坂越え間の道は、平成8年11月に「歴史の道百選」に選ばれました。
 選ばれた街道には、霊仙寺、修学院、数々の国境石などの遺跡が残っています。

下石動天満宮

後方には木々が生えており、写真の中央に下石動天満宮が写っている写真

 学問の神様、菅原 道真公を祀った由緒ある天満宮で菅原 道真の子孫が建立したと伝えられています。境内には、肥前鳥居や楠木の大木が歴史をしのばせます。
 25年に一度、大祭が行われます。

西往寺(大木家菩提寺)

建物の前に沢山の墓石が並んでいる  西往寺(大木家菩提寺)の写真

 天文7年(1538年)に僧 恵秀の創建と伝えらています。戦乱により衰退しましたが、豊臣 秀吉の九州平定後の国分けで、旧横田村一帯を領地としました。元筑後の大木城主大木 知光が菩提寺としたことで立ち直り、墓所が佐賀市宗智寺に移るまでの150年間の歴代当主の墓があります。明治の元勲、大木 喬任、遠吉 父子はこの子孫にあたります。

坂本修学院

緑に覆われた斜面に桜の花が満開に咲いており、山の中腹に坂本修学院が写っている写真

 慶長年間(1596年頃)、佐賀藩祖鍋島 直茂公の命により再興された、天台宗の由緒ある寺で、桜としゃくなげの名所としても有名です。

霊仙寺跡

建物の周りは沢山の杉の木が生えており、屋根瓦で古い柱で立っている乙護法堂の写真

 日本最初の茶樹栽培地として知られています。和銅2年(709年)、元明天皇の勅により堪誉(たんよ)上人が開山、九州でも代表的な山岳仏教の聖地として信仰を集め、脊振千坊と称されるほどの隆盛を誇っていたところです。
 現在は江戸時代末期に建立された乙護法堂を残すのみです。

村制100周年記念塔

展望台にシンボルマークとして赤い三角すい、青い球、少し小さい黄色い球が設されており、子ども達がシンボルマークの周りに集まっている写真

 平成元年、旧東脊振村の村制施行百周年を記念し村のシンボルとして造られました。展望台から佐賀平野が一望でき、遠くは雲仙、普賢岳が見えます。

蛤水道

自然あふれる場所に人口で作られた水路が流れており、女性2人が水路の側に座って水の流れを見ている写真

 慶長年間(1600年頃)佐賀藩重臣、治水の神様といわれた成富 兵庫茂安が築造したと伝えられるものです。筑前国(福岡県)へ流れる水を肥前国(佐賀県)へ流すための人口水路で、全長1,260メートルあります。現在、九州自然歩道の一部をなし、四季折々の景観を呈しています。

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